身を削ぐ
同室の男が部屋を出て、遠ざかる気配を感じ、殤は目を覚ました。その日とっている部屋は二部屋で、今いる部屋には男三人と琵琶一面、隣には紅一点の睦がいる。そちらへ何か用事があって向かったのかとも思われたが、隣室の扉が叩かれる音もせず、足音はやがて廊下の突き当りと思しき場所で消える。
窓の隙間から差し込むのは、うっすらと明け始めた空の光。こんな早朝に何の用事だか。気になって上半身を起こした殤の眼に飛び込んだのは、浪巫謠が寝ていた場所に置かれていた、彼の大事な琵琶だった。
「お前、置き去りか。」
小声で問えば、琵琶も声を潜めて答えた。
「慌てていたからなぁ。それどころじゃなかったんだろうよ。」
見ればいつもの赤い衣装も、衣桁にかけられたままになっていた。
「何があった? 」
「魘されていた。あんまり良くない夢を見ちまったらしい。潔斎に行ったんだろうぜ。」
「潔斎? 」
聞きなれない言葉に首を傾げれば、禊だよ、と琵琶はまた重ねた。
「嫌なことがあったら、水に流しちまうに限る。」
「水って、おい、ちょうど雪解け水が流れてくる頃だ、のんきに水浴びするような季節じゃねぇぞ。」
「あんたらしいなぁ。心配はいらねぇよ。気が落ち着けば帰って来る。」
心配するなと言われて、はいそうですかと二度寝できるほど、かの男への情は薄くない。しかも彼の武器である琵琶を置いていっている。丸裸のところで、敵が襲ってきたらどうするつもりだ。
それが本人の流儀であるならけちをつけるつもりはないが、見張りをするくらいならいいだろう。そう決めてさっさと衣服を整え始めた殤に、聆牙は呆れたように言った。
「あんた、意外とお節介だよなぁ。覗きはダメよ。」
昨日の旅程の途中に、小さな滝壺があった。起き掛けの頭で思い出すなら近場のそこかもしれない。向かった先で果たして、目指す男はいた。背をこちらに向け、岩場から落ちる水の下で、白い夜着のまま鏡餅のように丸くうずくまっている。潔斎というからてっきり修行僧のように座禅を組んで、経でも唱えているのかと思えば、これでは本当に水浴びだった。
耳聡い男だ。気づかれない様にと殤は気配を殺して見守る。いつの間に解いたのか、鳥の尻尾のような三本の三つ編みがとけて、水流に橙の光が泳ぐままになっている。落ちる水は止まらず、薄い着物一枚の背中を叩き続ける。幾枚も重ねた紅の衣を脱ぎ捨てた体が、思っていたよりほっそりとしていて、胸が痛んだ。
いくら悪夢を流したいといっても、度を越せば禊ではなく身を削いでしまう。頃合いを見て声をかけようと思っていた殤の前で、幽鬼のように白い体が立ち上がろうとして、ばしゃりと横倒しになった。
「浪! 」
「来るな。……濡れるぞ。」
返事は思いのほか、しっかりとしていた。やはりこの男には、殤の存在が気づかれていたらしい。
「水浴びもほどほどにな。このあたりの連中は朝が早そうだ。水汲みにきた姉さん方と鉢合わせでもしたら、幽霊が出たって触れ回られるぞ。」
「それは、困る。」
立ち上がるのを諦め、這うように流水の下へ戻りながら、そんなことを言う。