いつでも後悔しないように
この殤浪のことばっかり綴られているブログは、去年十月末の、西幽玹歌が公開された前後ぐらいから始めた、個人の妄想の吐き出し場なのだけれども。映画を見に行っていた頃は、四か月後の今、世界がウイルスで大変なことになってるなんて思いもしなかったのだよな。楽しみにしてた21日のAJがなくなって、28日の生死&西幽の一挙上映も行けなくなって、夏コミもなんだかなくなりそうで、その先のオンリーもわからなくて。もともと興味薄かったオリンピックも延期。身近なところでコロナも発生しはじめて、自分もいつ罹患するかわからない、という。まったく、想像だにしていなかった。
しかも、若いひとでも、感染してから一週間ぐらいで急激に悪化して亡くなったりするという。体質的な問題とか、リスクファクターはさまざまだけれど、自分が悪化しないタイプの人間だとは言い切れない。明日罹ったら、一週間先には入院してICUかもしれない。
そうなると、一番なにが心残りかって。それは殤浪の妄想で、まだ形にできてないものがまだまだあるっていうこと。さすがにICUでPC使えないし、そもそもそんな身体状況じゃないし、そんな悠長なことも言っていられないが。
勿体ない。せっかく萌える殤浪妄想がいっぱい生まれたというのに、形にしないままこの世からおさらばするなんて。そんなことを言ったら、交通事故やら他の疾病やら地震火事隕石やら、きりがないのだけどさ、今一番身近に迫っている生命の危機への対抗策としては、できる範囲でできる限りの防疫をしつつ、できる限りの殤浪を妄想したいなと思う。というわけで、小話ひとつ。
その美しいひとは、ある日突然、少年の前に現れた。
鮮やかな紅の装束、夕陽の色の髪、手間をかけて編んだ三本の三つ編み。そして、奇怪な鬼面のついた、琵琶を手にしている。
「お兄ちゃん、誰? 」
自分をじっと見つめるそのひとに問いかければ、はっとしたように目を開いて、それから首を振った。答えられない、という風に。
「どこに住んでるの? 」
「帰る家はあるの? 」
矢継ぎ早に続いた質問にも、無言で首を振った。
と、空気が変わった。それまでの穏やかな秋の果樹畑の景色がぐにゃりと歪み、大地からどす黒い瘴気が噴出した。
「おでましのようだぜ。」
不思議なことに、琵琶についている鬼面の口がカタカタと開いて、喋った。麗人はひとつ頷くと、少年を背に庇って、瘴気の沸いた穴の淵を睨みつける。
そこから先は、少年の想像の域を遥かに超える、壮絶な出来事だった。
少年が生まれる前からあるという、幹が太くねじれた柿の木を何十倍にも束ねたような、大きな木の化け物が現れて、紅色の美しいひとと戦いを始めた。
そのひとの持つ得物は刃渡りの長い剣で、振るう度に炎が刃の上に浮き出して、木の化け物を黒焦げにする。が、化け物のほうも自在に伸びる枝を駆使し、鋭く尖った枝先で、赤い衣装や手足を切り裂いていく。
これは、夢なのか。手足の力が抜け、隠れていろと押しやられた岩にしがみつくようにして見守るうちに、戦いの決着がついた。
炎上し、炭になって元の穴へ吸い込まれていく木っ端の塊と、がくりと膝をついた戦士。
「お兄ちゃん、大丈夫!? 」
叫びながら駆け寄れば、そのひとはぐらりと平衡を失って、仰向けに倒れた。
そばにしゃがんだ少年の、黒く長い髪が、血に染まった手に触れた。その髪を一束、震える手でとり、なぜかそのひとは緑色の眼を細めて、言った。
「……まだ、真っ黒。」
美しいひとの命の灯火が消えて行くのを、少年は呆然と見守った。赤い着物のせいで目立たなかったが、その布の大半に穴が空き、じっとりと濃く血濡れていた。握られていた剣はひびが入り、その根本に紐で巻きつけられていた白い勾玉も、欠けてしまっている。
「居なかった、ことになっちまうんだろうな。」
背負われていた琵琶が、ぽつりと言った。
「歴史を変えさせない。その為なら、時間の狭間に消えてもいいって、言ってたもんな。」
「お兄ちゃんは……、」
「なぁ、忘れちまうだろうけれどもよ。もし、ほんの少しでも、奇跡みたいなことが起こって、覚えていてくれたらさ。…………って、」
「えっ? 」
琵琶がなにかを言い、その意味を量りかねているうちに。吹く風に溶け込むようにして、その美しいひとと琵琶の姿は消えてしまった。
後には黒々とした染みと、白い勾玉の欠片だけが残っていた。
「どうしたね、ぼうっとして。」
東離の山中、掠風竊塵の案内で、神誨魔械の祀られているという祠へ辿り着いたが、そこから先の記憶があいまいになっている。
彼らは時を渡る能力を持つ勾玉を巡って、ある魔族と争いになっていたはずだった。奪われた勾玉のうち、対になっているひとつを持って、魔神はいずこへか姿を消した。そして、もうひとつの勾玉は。
「なあ、ここに飾られていたもうひとつの勾玉は、どうした? 」
「はて。面妖な。誰かが持って行ったものと見えるが、思い出せん。」
銀髪の男は、煙管をくゆらしながら首を傾げた。
「魔神も消えちまってから姿を露わさねぇし。気が変わって魔界へ帰ったのなら、まったく人騒がせなもんだぜ。」
帰ろうぜ、と踵を返して祠を出る。その足が、何かを踏みつけて静止した。
「なんだこれ。」
「水色の房の、耳飾りのようだな。どこかのご婦人の持ち物だろうか。」
「こんなところに他にも人が来たってのか? ご苦労なこった。」
拾い上げて、ひょいっと祠の壁の出っ張りにかけ、殤はそれを置いてゆこうとした。おいて行く、つもりだった。
指が、握りしめたまま、凍り付いたように動かない。焦って力を入れて手をぶんぶん振ろうとするが、まるで離すなといわんばかりに、指先は固まるばかりだった。
「え、なんだこれ、気味悪ぃ。」
「どうしたね。」
「指のやつが、急に動かなくなっちまった。くそっ、」
「卒中にでもなったか。気になるなら腕の良い医者を紹介するが。」
「一時的なもんならいいが。とにかく、こんな山中に長居は無用だ。帰ろうぜ。」
殤は己の手の異変に首をひねりながらも、山を降りる。降りる間も、言う事を聞かない手は、勝手に山から持ち出した耳飾りを握っていた。
「なんだよ、黙りこくって。」
ひらり、ひらりと、まるで重さがないような足取りで岩場を下っていく盗賊は、先ほどから奇妙な表情で、地面を見つめていた。
「いや、なに。我々はふたりでここまで来た筈だ。なのに、山を登って来た足跡が三種類、三人分あるのだよ。どういうわけかと思ってな。」
「案内してきたお前がわからねぇのに、俺にわかるわけねぇだろ。」
そもそも、魔剣を集める男さえ存在しなければ、全ての魔剣は魔族の手に入り、残された神誨魔械は保護されずに破壊できる。
そうひと演説をぶって、勾玉を利用して過去へと飛んだ魔神を、追いかけた炎の色の影があった。
が、それを知る者はもう世にいない。ふたつの勾玉と、影の消失とともに、まつわる記憶は全て歴史の狭間へと沈んでいってしまった。