だんなさまの音 参
ぎし、ぎししっ。
ぎし、がっ。
最初浪は、それが何の音なのかよくわからなかった。が、音の出どころを追って行けば、洗面台で、旦那様が白髪交じりの黒髪をブラシでといている。
長くてさらさらで、肌に触れるとひんやりとしてどきりとする。浪は殤の黒髪が大好きだった。
が、いつもはさらさらのその髪が、ブラシでとくとひっかかって音がするくらいに荒れている。ちょっと枝毛もできている。ちょうど日差しが強くなってきたから、帽子も何もかぶらずに外回りの営業に出て、紫外線にやられたに違いない。
鏡の前でせっせと髪をといている殤に気づかれないよう踵を返し、キッチンへと急ぐ。
ええと。髪質をよくする食べ物は。本を取り出し、目当てのページを辿る。
たんぱく質が豊富に入っているもの。卵。牛乳。
既に夕食の後だから、明日の朝にしようと決めて、念のために冷蔵庫を覗く。
良かった。卵はいつもたくさん買ってある。
翌朝。ごはんと味噌汁が並ぶはずのダイニングテーブルには、珍しく、トーストとチーズオムレツ、焼いたベーコンに、ホットミルクが鎮座する。
浪は知っている。殤は朝は、ごはんを食べるほうが好きだと。トーストでは腹持ちが悪いと言っているのも、聞いている。
けれど、並べられた朝食について、作ってもらったものに対して、やっぱり米が食いたいという旦那様ではない。ちょっと不本意そうに、珍しいな、と呟いて、黙って食べてくれる。
ごめんなさい。
たとえば、鮭の切り身なんかのほうが好きなのは、重々承知しているのだけれど。ずっと魚を食べていないから、そろそろ食べたい時期が来てるんじゃないかと、察していたけれども。
浪は心の中で謝りながら、自分も同じ朝食を黙って食べる。
身勝手だと知っていて。殤の髪につやつやに戻って欲しくて。あんな風に、ぎしぎしとしたきしむような音は立てて欲しくないのだと。
互いに何も言わないまま、言えないまま。静かに朝食は終わる。