火毛猴のあくたれ 弐
遠ざかる気配を背中で感じながら、浪巫謠は走っていた。
生まれて初めて出来た、浪巫謠の旅の仲間達。世間知らずの己を教唆し、育んでくれる手と手と、手。それらは時に厳しくて、時に羽根布団より柔らかい。
母を失い天涯孤独となった浪にとっては家族とも言える、大切なひと達だった。
「なあ、おい、どこまでいくんだよ!? 」
茶飲み会議に背を向けて部屋を飛び出した浪に、背中の琵琶が声を掛ける。
分身とも言うべき楽器の言葉にも返事をせず、赤い裾を翻して、ただ駆けた。
やがて目の前に橋のない川が現れ、川幅の広さに渡れないと悟り、川を見下ろす土手に腰を下ろした。草むらに足を伸ばし、地面についた右手に触れた小石を掴むと、眼下の川にぽーんと放り投げる。
誰がどう見ても、親に咎められて拗ねた子供の素振りであった。
だが、背後からでも聆牙は気づいていた。その横顔に浮かんでいるのは彼の保護者に話が通じなかった悔しさではない。むしろ、ぼうっとして、その翡翠の眼はどこを見ているかわからないようでもある。いつものぶっきらぼうな無表情ではない。生まれた時から側にいる聆牙ですら、滅多に見ない表情だった。
「……お前さんは、怖ぇなぁ。わかるようで、わからない引き出しが沢山ある。表から見える屏風の裏っ側に、違う画が描かれてるようなもんさ。」
しみじみと言う聆牙には、どこまで音色を通じて伝わっているのか。
独り言のような楽器の言葉にも答えず、浪は己の右手を日差しを遮るように前にかざした。
今の浪の心は、先ほどのちょっとした諍いからは全く切り離された世界にいた。この頃ずっと抱えていた疑問がぐるぐると頭の中で独楽のように回っている。
(……不思議だ。)
手の大きさも違う。声も違う。体つきも年齢も違う。自分と、殤とは、同じものではない。それなのになぜ、と浪は首を傾げる。
「同じように、痛い。」
「ほーお。」
ただの一言で合点が言ったのは、そしてただの一言から読めるのは、屏風の裏を覗き込める聆牙をおいて他にはなかった。
突然、がさがさと川向の藪が揺れた。浪と聆牙が目を凝らすと、茶色の猿が一匹現れて、藪に咲いた花を千切ってその蜜を吸い始めた。何の変哲もない猿である。こちらが眺めているのも気にならないのか、むしって吸っては投げ、を繰り返していた。
「かくありたい。」
「あぁー、そう。それはそれで、旦那方がなんて言うか、わからねぇがな。」
どこか満足そうにそう楽器に告げると、立ち上がって土埃を払い、歩き出す。元いた彼の居場所、大切なひと達の待つ茶飲み部屋へと戻るのだ。
「あれをまた繰り返すのか? 」
「ああ。」
馬鹿だねぇ、と琵琶は思った。誰よりも力になりたい大事な主ではあるが、こういう時は、率直に馬鹿だと罵れる。
その夜、浪を姉のように可愛がり、浪もまた姉のように慕う睦天命が、こっそりと楽器とふたりきりになって尋ねた。
「ねぇ聆牙。あれは、なんなの? 」
「……お猿さんになりてぇんだとさ。」