殤浪@サンファンドットコム

【Attention!】こちらはBL要素・18禁の内容を含みます。どうぞご注意下さい。Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀 のキャラクターのカップリング推しの管理人、律による、腐向け二次創作記事中心のブログとなってます。

オルフェウスの手

底のない深い暗闇に引き込まれ、眠気を誘う緩やかな落下に目を閉じたまでは覚えていた。

気づいた時には眼前に、己の背丈を上下左右に五つ六つ引き延ばした高さほどの、岩の洞窟があった。

灰に藍色の混じった岩肌は、不思議にも日の差す隙間などないというのに、目を凝らさずとも輪郭がくっきりと見えるほど明るい。まるでそれ自体が光を帯びているようだった。

背中にちらりと目を向けるも、物心ついた時から側にあった琵琶の気配は存在しなかった。己が魔力で言霊を得はしたが、あれはあれで、意志ある一個の付喪神である。冥府への旅路に、道連れにせずに良かったと安堵した。

後は、軽くなった両腕で紅色の袖を振りながら、この洞窟の先へと進むだけだった。

 

不意に、前方に気配が現れた。洞窟の先から歩いて近寄って来たなら浪も気づいたであろうが、いきなり出現したのである。咄嗟に左腕で体を庇い、膝を落として重心を下げた。

浪と比べても、長身の男であった。佇まいには一部の隙もない。背に負った二刀を見るまでもなく、秀でた武人であろうと察せられた。頭には羽飾りをつけ、手には一本の笛を持っている。放たれる威風は並みの者であれば怖気づいただろうが、傑物を見慣れた浪であればたじろぎもしない。

 

「ほう。」

男は浪をその三白眼で無遠慮に眺めて、まず言った。

「霞や靄ばかり来ると思えば、足のある者は久方ぶりだ。」

 

魔性ゆえに発声をずっと控えていたが、この場にいるとなればもはや、影響を受けたとて生命に一切問題のない存在の筈である。こちらもまた、背の刀で害されたとしても今更であった。

わざわざ向こうから話しかけてくるぐらいであれば、話好きなのかも知れない。体を庇っていた腕を下げ、姿勢を正した。

「いずれは、この身も消えよう。」

そう返せば、男の紅紫の眼が、面白がるように細められた。

「変わった声だ。声そのものに力がある。失せたくとも、容易くは失せられまい。この、俺のように。」

「それは遺憾だ。」

くっくっ、と低い笑い声がした。浪の目の前の、鋭い眼の男が笑ったのである。

「ああ、だからこそ、待つことができる。」

待ち人があるのか、と浪は首肯した。

「俺は、待ちたくない。」

「なら、進むがいい。眠っては歩き、歩いては眠って、三度眠る頃には……っ! 」

説明を繰り返していた語尾が、突然途切れた。目を見開いて浪を見ている。いや、正確には浪の姿を通り越して、地面に注がれていた。

自分の背後に何かあるのだろうか。浪は男の視線を追って振り返った。

 

手だった。

 

金糸で羽が刺繍された豪奢な衣装の長い外套の裾を、地面から生えた手がひとつ、握りしめていた。親指の位置からして、右手であろう。

もしその手の持ち主がわからなければ、さしもの浪もぞっとして、喉の奥で悲鳴くらいは上げていたかもしれない。

けれど、誰よりも側にいた浪にはわかる。薄い茶色の布で縁取りがなされた革編みの手甲は、かの男のものだった。

 

「ならぬ。」

 

羽飾りの男が驚くほど、浪はきっぱりと言った。突き放すようなそれは、男ではなく強く視線を落とす手に向けられたものだった。

片膝立ちでしゃがみ込み、裾を握るがっしりした指を、一本一本と外していく。全てを断つ言葉とは裏腹に、浪は指を全て外してしまうと、手首から先のない右手を胸に押し頂き、次いで顔の高さに持ち上げて白皙の頬を寄せた。目を閉じ、猫の子が親に擦り寄るように手甲に頬ずりする。

 

指が藻掻くように震え、やがて消えた。

 

「……三度、眠る頃には? 」

「ん、あ、ああ。」

 

羽飾りの男は、微動だにせずに浪と、突如現れた手との邂逅を見守っていた。再び立ち上がった赤い衣装の男に促されて我に返る。どうやら新しい来訪者も手だけの闖入者も、相応に訳ありらしいと踏んだ。何よりあの手には男も見覚えがあった。忘れもしない、とある貸切の酒場で対峙した剣豪の手である。盃を持ったまま命のやり取りをした苛烈な記憶は、今でも不思議と鮮やかに思い出された。

しかし、彼らの間を詮索する義理も意味もない。ここにいるということは、そういうことだった。

 

「げほん、先に、大河がある。溺れぬようであればさらに進めば良い。」

「左様か。では、」

「はぅっ、、、!? 」

 

咳払いをして言葉を継いだ男は、また、見てしまった。

一歩こちらへ近づこうとする訳ありの男の背後を。

 

それは、手であった。今度は一つではない。房飾りのついた裾の端から端を、地面からにゅっと伸びた幾つも手が、並んで握りしめていた。

浪もまた、振り返り、大きな眼を更に大きく見開いた。

 

「いー、ある、さん、……十二も。」

 

羽飾りの男、殺無生は、驚きながらも意外に思っていた。桂花園で相席した男は、確かに仲間の青年の為に駆け引きをする、人並みの情を持つ男だと思っていたが、ここまで深い執着を誰かに抱くようには見えなかったのである。

目の前の炎色の髪をした男は、地面から生えた手の持ち主にとってのなんなのか。

気にはなったが、詮索しても今更だった。ここはそういう場所であった。

 

浪は振り返り、再び膝をついて座った。同じように見える手でも、ひとつひとつ違った。

離れたところにいる初対面の男の存在も忘れ、両手で手をひとつひとつ外しては、呟く。

 

「これは、南方への旅で崖から落ちそうになった時に、掴んでくれた手。」

「意見が割れて肩を掴んで来た時に、振り払った手。」

「狂狷にとどめを刺されようとした時に、刃を払って救ってくれた手。」

「抱え起こしてくれた手。」

「宿で怪我の手当をしてくれた手。」

「額の汗を布で拭ってくれた手。」

「初めて、体の中に入り込んで俺を暴いた手。」

「乳首を弄るのが好きだった手。」

「握りしめ合って、眠った手。」

「この世で最期に見た、俺の方へ伸ばされた手。」

 

「ありがとう。」

 

けれど、ならぬ。

 

ひとつひとつ、思い出をなぞるように手の平を指でなぞって、解放してゆく。

最後に残ったひとつだけは、指をばたつかせていたが、浪が唇を寄せて感謝をささやくとだらりと動きを止め、静かに消えて行った。

 

 

「……度々、話の腰を折ってすまぬ。」

「あ、ああ、いや。」

「俺は、もうゆかねば。」

「そうか。」

 

長い睫毛の載った目をぱしぱしと瞬かせ、殺無生は笛を持ったままの手を振った。いろいろとわかってしまった。わかってしまったが、この場に置いては詮無いことだった。

全てに別れを告げ、覚悟を決めた眼差しをしている男が。前へ進むと言うなら、多少は道を開けねばなるまい。そう考えて、男の前を塞いでいた我が身を左手側へ大幅に一歩、避けたときだった。

 

「お、あぅえ!? 」

 

あれ、とも、おい、とも、上、ともつかぬ声が同時に口から出た。無生が言いたかったのはおいお前、上を見ろ、だった。言いきる間もなかった。

頭上に黒い影が差し、びゅうと風を切る音が起こる。影がどんどん大きくなる。迫りくるものがなんなのか、赤毛の男に気づく暇があっただろうか。

 

それは、彼らの背を倍にした大きさの、有り得ない大きさの、五指を拡げた手甲付きの手であった。

 

びたーん!

 

衝撃で土埃が舞い、地面から割れた小石が無生の足元まで飛んでくるほどだった。

 

「お、おい! 大丈夫か?! 」

 

驚きのあまり、逃げる暇もなかっただろう。目の前の男は、人間が肌に止まった蚊を叩くように、巨大な手の平で地面に押し倒されてしまった。

 

無生は笛を懐にしまい駆け寄って、丸太ほどもある指をどかそうと手を伸ばそうとした。

と、音もなく殤不患の右手が消えた。

下敷きになったはずの赤毛の男の姿は、どこにもなかった。

 

 

何かを握りしめるような残像だけを、その場に残していた。