オルフェウスの手
底のない深い暗闇に引き込まれ、眠気を誘う緩やかな落下に目を閉じたまでは覚えていた。
気づいた時には眼前に、己の背丈を上下左右に五つ六つ引き延ばした高さほどの、岩の洞窟があった。
灰に藍色の混じった岩肌は、不思議にも日の差す隙間などないというのに、目を凝らさずとも輪郭がくっきりと見えるほど明るい。まるでそれ自体が光を帯びているようだった。
背中にちらりと目を向けるも、物心ついた時から側にあった琵琶の気配は存在しなかった。己が魔力で言霊を得はしたが、あれはあれで、意志ある一個の付喪神である。冥府への旅路に、道連れにせずに良かったと安堵した。
後は、軽くなった両腕で紅色の袖を振りながら、この洞窟の先へと進むだけだった。
不意に、前方に気配が現れた。洞窟の先から歩いて近寄って来たなら浪も気づいたであろうが、いきなり出現したのである。咄嗟に左腕で体を庇い、膝を落として重心を下げた。
浪と比べても、長身の男であった。佇まいには一部の隙もない。背に負った二刀を見るまでもなく、秀でた武人であろうと察せられた。頭には羽飾りをつけ、手には一本の笛を持っている。放たれる威風は並みの者であれば怖気づいただろうが、傑物を見慣れた浪であればたじろぎもしない。
「ほう。」
男は浪をその三白眼で無遠慮に眺めて、まず言った。
「霞や靄ばかり来ると思えば、足のある者は久方ぶりだ。」
魔性ゆえに発声をずっと控えていたが、この場にいるとなればもはや、影響を受けたとて生命に一切問題のない存在の筈である。こちらもまた、背の刀で害されたとしても今更であった。
わざわざ向こうから話しかけてくるぐらいであれば、話好きなのかも知れない。体を庇っていた腕を下げ、姿勢を正した。
「いずれは、この身も消えよう。」
そう返せば、男の紅紫の眼が、面白がるように細められた。
「変わった声だ。声そのものに力がある。失せたくとも、容易くは失せられまい。この、俺のように。」
「それは遺憾だ。」
くっくっ、と低い笑い声がした。浪の目の前の、鋭い眼の男が笑ったのである。
「ああ、だからこそ、待つことができる。」
待ち人があるのか、と浪は首肯した。
「俺は、待ちたくない。」
「なら、進むがいい。眠っては歩き、歩いては眠って、三度眠る頃には……っ! 」
説明を繰り返していた語尾が、突然途切れた。目を見開いて浪を見ている。いや、正確には浪の姿を通り越して、地面に注がれていた。
自分の背後に何かあるのだろうか。浪は男の視線を追って振り返った。
手だった。
金糸で羽が刺繍された豪奢な衣装の長い外套の裾を、地面から生えた手がひとつ、握りしめていた。親指の位置からして、右手であろう。
もしその手の持ち主がわからなければ、さしもの浪もぞっとして、喉の奥で悲鳴くらいは上げていたかもしれない。
けれど、誰よりも側にいた浪にはわかる。薄い茶色の布で縁取りがなされた革編みの手甲は、かの男のものだった。
「ならぬ。」
羽飾りの男が驚くほど、浪はきっぱりと言った。突き放すようなそれは、男ではなく強く視線を落とす手に向けられたものだった。
片膝立ちでしゃがみ込み、裾を握るがっしりした指を、一本一本と外していく。全てを断つ言葉とは裏腹に、浪は指を全て外してしまうと、手首から先のない右手を胸に押し頂き、次いで顔の高さに持ち上げて白皙の頬を寄せた。目を閉じ、猫の子が親に擦り寄るように手甲に頬ずりする。
指が藻掻くように震え、やがて消えた。
「……三度、眠る頃には? 」
「ん、あ、ああ。」
羽飾りの男は、微動だにせずに浪と、突如現れた手との邂逅を見守っていた。再び立ち上がった赤い衣装の男に促されて我に返る。どうやら新しい来訪者も手だけの闖入者も、相応に訳ありらしいと踏んだ。何よりあの手には男も見覚えがあった。忘れもしない、とある貸切の酒場で対峙した剣豪の手である。盃を持ったまま命のやり取りをした苛烈な記憶は、今でも不思議と鮮やかに思い出された。
しかし、彼らの間を詮索する義理も意味もない。ここにいるということは、そういうことだった。
「げほん、先に、大河がある。溺れぬようであればさらに進めば良い。」
「左様か。では、」
「はぅっ、、、!? 」
咳払いをして言葉を継いだ男は、また、見てしまった。
一歩こちらへ近づこうとする訳ありの男の背後を。
それは、手であった。今度は一つではない。房飾りのついた裾の端から端を、地面からにゅっと伸びた幾つも手が、並んで握りしめていた。
浪もまた、振り返り、大きな眼を更に大きく見開いた。
「いー、ある、さん、……十二も。」
羽飾りの男、殺無生は、驚きながらも意外に思っていた。桂花園で相席した男は、確かに仲間の青年の為に駆け引きをする、人並みの情を持つ男だと思っていたが、ここまで深い執着を誰かに抱くようには見えなかったのである。
目の前の炎色の髪をした男は、地面から生えた手の持ち主にとってのなんなのか。
気にはなったが、詮索しても今更だった。ここはそういう場所であった。
浪は振り返り、再び膝をついて座った。同じように見える手でも、ひとつひとつ違った。
離れたところにいる初対面の男の存在も忘れ、両手で手をひとつひとつ外しては、呟く。
「これは、南方への旅で崖から落ちそうになった時に、掴んでくれた手。」
「意見が割れて肩を掴んで来た時に、振り払った手。」
「狂狷にとどめを刺されようとした時に、刃を払って救ってくれた手。」
「抱え起こしてくれた手。」
「宿で怪我の手当をしてくれた手。」
「額の汗を布で拭ってくれた手。」
「初めて、体の中に入り込んで俺を暴いた手。」
「乳首を弄るのが好きだった手。」
「握りしめ合って、眠った手。」
「この世で最期に見た、俺の方へ伸ばされた手。」
「ありがとう。」
けれど、ならぬ。
ひとつひとつ、思い出をなぞるように手の平を指でなぞって、解放してゆく。
最後に残ったひとつだけは、指をばたつかせていたが、浪が唇を寄せて感謝をささやくとだらりと動きを止め、静かに消えて行った。
「……度々、話の腰を折ってすまぬ。」
「あ、ああ、いや。」
「俺は、もうゆかねば。」
「そうか。」
長い睫毛の載った目をぱしぱしと瞬かせ、殺無生は笛を持ったままの手を振った。いろいろとわかってしまった。わかってしまったが、この場に置いては詮無いことだった。
全てに別れを告げ、覚悟を決めた眼差しをしている男が。前へ進むと言うなら、多少は道を開けねばなるまい。そう考えて、男の前を塞いでいた我が身を左手側へ大幅に一歩、避けたときだった。
「お、あぅえ!? 」
あれ、とも、おい、とも、上、ともつかぬ声が同時に口から出た。無生が言いたかったのはおいお前、上を見ろ、だった。言いきる間もなかった。
頭上に黒い影が差し、びゅうと風を切る音が起こる。影がどんどん大きくなる。迫りくるものがなんなのか、赤毛の男に気づく暇があっただろうか。
それは、彼らの背を倍にした大きさの、有り得ない大きさの、五指を拡げた手甲付きの手であった。
びたーん!
衝撃で土埃が舞い、地面から割れた小石が無生の足元まで飛んでくるほどだった。
「お、おい! 大丈夫か?! 」
驚きのあまり、逃げる暇もなかっただろう。目の前の男は、人間が肌に止まった蚊を叩くように、巨大な手の平で地面に押し倒されてしまった。
無生は笛を懐にしまい駆け寄って、丸太ほどもある指をどかそうと手を伸ばそうとした。
と、音もなく殤不患の右手が消えた。
下敷きになったはずの赤毛の男の姿は、どこにもなかった。
何かを握りしめるような残像だけを、その場に残していた。