ただひとり愛するひとと
「……殤、先生、」
驚き過ぎて体が動かなかった。座ったまま、声の主が近づいてくるのを浪は呆然と待つ。
「隣、いいか。」
今日の殤は、いつものジャージ姿ではなくきちんとした三つ揃えのスーツを着て、ポケットにチーフを入れていた。ぼさぼさの髪も後頭部でひとつにくくり、無精ひげも整えている。
男前だ、と思ったのと同時に、浪は悲しくなった。きっとその正装は、毎年恒例になった、殤にとっては拷問のようなパーティでの、望まないエスコートの為。今回もきっと浪が不正を使って一位を取るだろうと見越した上での用意。
(こんな優しいひとに、「ふよう」は今まで、ひどいことを。)
浪が顔を上げられずに黙っていると、勝手に隣に腰を下ろしてくる。
「パーティにも出ないし、家に問い合わせても帰ってないって言うから。どこに行っちまったかと思っていたが。やっぱりここにいたんだな。」
やっぱり、という言葉がひっかかり、浪はうつむいたまま首を傾げる。
「いつもここで熱心に練習してただろう? 」
「……はい。」
聞かれていた恥ずかしさにかっとなって、耳から火を噴きそうだった。
「毎日毎日。一体誰が弾いてるんだと気になってたが、覗いたら邪魔するみたいで遠慮してたんだ。コンクールでお前が弾いてるのを聞いて、ようやく誰だかわかった。」
「わたし、今まで、さぼっていたから。」
小さな声でやっと浪が答えると、返って来たのは笑顔だった。
「心を入れ替えて、一からやり直そうとしたんだろう。俺は、そういう奴は嫌いじゃない。むしろ応援したくなる。」
いたたまれずに、浪は自分の顔を両手で覆った。殤の優しい言葉に、涙があふれてくる。
「ごめんなさい、先生。わたし、今まで、本当にごめんなさい。」
「ふよう」が、あなたに嫌な思いをさせてごめんなさい。
もうすぐ消えるから。ここからいなくなるから、どうか許して。
申し訳ない気持ちが募って、涙が止まらない。
謝りながら泣きじゃくる赤毛の少女を、殤は引き寄せて抱きしめ、その髪を幾度も撫でた。
(素直で、まっすぐだな。変わる前も、今も。)
先ほどパーティ会場を出る前の、凜せつあとの会話を思い出す。
(「殤センセイ。わたし、なにはともあれ一番になりましたよ。お願いをひとつ聞いて下さい。」)
白いドレスの裾をつまみ、貴婦人の礼をして、にこにこしながら凜は言った。
(「約束した覚えはねぇが。」)
(「みんな聞いていましたよ? ねぇ、今日のパーティ、わたしと踊って欲しいんです。前は浪ふようとも踊っていたし、いいでしょう? 」)
かつて、言う事を聞かなければ教職を辞めさせる、と悪役令嬢に脅されたことがあった。理事長にも校長にも、あの小娘には従ってくれ、と圧をかけられた。一位になった褒美に、エスコートして欲しいのだと甘ったれた声で腕を引かれた。
可能な限り生徒は平等に公平に扱う。殤はそれをモットーにしてきた。権力づくで従わされるのは趣味ではない。それでも。それでもあの少女と踊ったのは。
(「凜。お前さんが踊る相手は別に、理事長だろうが校長だろうが、生徒会長だろうが誰でもいいんだろう。自分の正義のため、最大限利用できる相手ならな。」)
毎年、悪役令嬢浪ふようの相手役をしていた自分が凜と踊れば、周囲は彼女の存在感と正統性を意識する。学園中を虜にする正義感の強いヒロインとしては、このチャンスは逃せないのだろう。
(「ひどいな、センセイ。わたし純粋にセンセイのことが好きなのに。」)
(「誰にでも言ってんだろ。他の奴らの前でもそれ、言えるか? 」)
(「ええ、それは言えるわ。だって、みんなのことが好きだし、好きなひと全員にそう言えるもの。」)
悪びれもせず凜は言う。ヒロインらしく、気になる相手全員に愛を振りまくのが彼女の流儀なのかもしれない。そうして自分への多数の支持をとりつけてきたのだ。
浪ふようは違った。権力を使ってまで求めたのは殤だけだった。その手段の悪辣さはどうあれ、殤は自分の腕の中で微笑む少女の、誰かを恋うる、心から幸せそうな表情を忘れない。
先生が好き、と繰り返しながら、悪役令嬢の瞳はいつもまっすぐに、殤だけを見つめていた。
(「悪いな。俺も教師である前に男なんでな。気のある相手とじゃなきゃ踊ろうとは思わねぇんだ。」)
どれほど好かれていたところで、自分と浪ふようとの関係は教師と生徒である。だが、いじらしい恋心に少しくらいは報いてやりたいと、浪とのダンスを拒まなかったのはそんな理由があったのだった。
(「悪役令嬢に肩入れするの? 意外。センセイってお金目当てのひとだったんですね。」)
(「そうやって本質を見ようともせずに、勝手にレッテルをはってりゃいいだろう。じゃあな。」)