早くも餅を
買ってきたお正月用の餅が美味しくて、早くもお正月の分がなくなりそうな勢いで減っている。餅を齧りながら考えるのは、現パロ殤浪のお正月の過ごし方。
昨日のだんなさま妄想と合わせて、明治ぐらいのちょっと古い時代の殤浪でもいいな。
御一新からしばらく経って世も落ち着いた明治の半ば。鍼灸師として小さな店を構えている殤は、年末から新年にかけては休みを取り、自宅でのんびりと羽を伸ばしていた。今年は貰ったばかりの妻と過ごす初めての晦日であり正月であったから、休みなんてあってないような仕事三昧の日々から遠ざかり、寂しがらせているであろう妻を構ってやりたかった。
がらがらがっしゃーん、と土間からただならぬ音が聞こえ、殤は座卓で読んでいた新聞を放り出して立ち上がった。
「巫謠、どうした!? 」
問いかけるも返事がない。男子厨房へ入るべからずというが、独り身の時代からまったく気にかけない殤であったので、遠慮なしに土間へとつづく木戸を開けた。
竈がふたつ並び、棚と、菜を切って並べる調理台が置かれているだけの小さな台所である。その床に敷かれた藁編みのむしろの上には所狭しと風呂敷包みが並び、端には音の原因だったであろう、空の鍋がふたつ、うずくまった妻のそばに転がっていた。
裸足のままで土間に飛び降り、殤は小豆色の小袖の上に白い割烹着を着た妻を抱き起こした。
「大丈夫か。何があった。」
「……転んだ。」
「どっか痛てぇところは? 」
「ない。」
その言葉の割に、綺麗な顔は今にも泣きそうに歪んでいる。
「本当か? 嘘はなしだぞ。」
一回り以上年の若い妻の赤毛を子供にするように撫でてやると、我慢しきれなくなったのか、殤の胸元に顔を押し付けて嗚咽を漏らした。
「もうしわけ、ありませんっ……、だんなさま……! 」
「うん? 」
なんだろうか。何か巫謠が謝らねばならない真似をしただろうか。すすり泣いている妻をあやすように抱き締め、その背をぽんぽんと軽く叩きながら、殤は様々な風呂敷の山で散らかっている台所をひとしきり眺めた。
ああ、なるほど。
夕餉の時間も近いのに、竈にはまだ火が入っていない。慣れない買い物をしてくるだけで精一杯だったのだろう。
置屋で生まれ、幼少時から舞妓として踊り、三味線、長唄、琵琶と様々な芸を厳しく叩きこまれて育ち、会話がさっぱりできない短所を芸の技で補って、長じては芸妓としてお座敷から引っ張りだこだったという妻である。そこに料理を学ぶ時間があった筈もなく、米の炊き方は結婚してから殤が教えたのだった。
朝晩の米に味噌汁、漬物に簡単なお菜程度はなんとか習得しても、正月の御節料理まではどうにもならなかったのだろう。昼から忙しそうに出入りしていたので邪魔になってはいけないと座敷に籠っていたが、放っておいて可哀相なことをした。
風呂敷の隙間からは、芋や蓮根、昆布や牛蒡が覗いている。作り方はわからなくとも、何を食べていたかは覚えていたらしい。
「何も謝ることはない。ちゃんと買って来られて偉いぞ、巫謠。」
三が日はどこも店仕舞いである。少なくとも材料があればひもじい思いをすることはない。下働きにひとを雇える甲斐性があれば、そもそも芸の世界で華やかに生きていた妻を泣かさずに済んだ。責められるべきは殤であった。
巫謠は大店の旦那から水揚げの話がいくつも出ていたのを断り、生き甲斐であっただろう芸の道も引退して、置屋に出入りしていた一介の鍼灸師でしかなかった殤のもとへ、琵琶一本を携えて嫁いできた。置屋の主人だった母を亡くし、後から入り込んだ経営者達に良いように利用されていたのを、殤が諭したのである。
「生まれ変わったような気分だった。一目ぼれだった。」
今でも妻はそう言ってはにかむ。
そこからの巫謠の行動力は目を見張るようだった。贔屓筋だった伯爵令嬢の力を借りて経営者らを追放し、数人いた母の弟子の芸妓達を他所の置屋へ預け、琵琶以外の持ち物は生家も着物もほとんど売り払って、姐達の当面の暮らしを保証した。
「これからどうするんだ? 」
「……どうにか、なろう。」
帰る場所を自ら失くし、伯爵令嬢の誘いも断ってひとりきりになった巫謠を、だったら家に来いと誘ったのは殤だった。路上で流しでもしているうちに、また厄介なのに目をつけられてもいけない。親心のつもりでいるうちに、いつしか恋心になっていたのである。
互いに身寄りのない身上、ふたりきりで三々九度を交わしたのが唯一の、婚礼らしい真似事だった。それでも「惚れたひとと一緒になれるとは、なんたる果報よ」と嬉しそうに言うのが可愛くてたまらずに、一生涯をかけて大切にして行こうと誓ったというのに。
「偉くなどない。豆の、炊き方も知らぬのに……、」
べそをかきながら、巫謠が言う。本人が望めばきっと今でも、皇族さまや貴族さま方の前で踊り、歌い、寵愛を受けられる男のはずが。今はこんな小さな台所の隅で、黒豆が炊けないと泣いている。御節が作れず申し訳ないと謝って、頬を濡らしている。
その様が不憫で、けれども何にも代えがたいほど愛おしくて。殤は小さく震えるつむじに唇を寄せて口づけると、元気づけるように言った。
「そんなのはこれから覚えていけばいい。歳神さまをお迎えするまでにはまだまだ時間があるさ。さあ、一緒に作ろう。」
「殤、作れるのか? 」
びっくりしたように巫謠が顔を上げた。
「見よう見まねだがな。なぁに、わからなけりゃ裏の御隠居や、三件隣のお睦っちゃんに聞きに行きゃいいんだ。」
それからふたりして夜通し竈に火を焚いて、翌朝、日の出の頃には無事に御節の膳の体裁を整え、竈の火を落とすことができた。
歳神様の膳を神棚に供えたはいいが、肝心の自分達は睦がくれた年越しそばを食べたり、煮染めや酢の物を味見でさんざん摘まんでしまったりで、すっかり腹がくちている。お屠蘇だけを口にして、寝正月を決め込もうと共に床へ入った。
「……惚れ直したぞ、だんなさま。」
うっとりと言われ、殤は正月休みをとった真の意味を思い出す。
「御節や雑煮なんぞ食うよりも、俺はお前が食いたい。」
「ふっ、」
滅多に声を上げて笑わない巫謠が、肩を上下に揺らして笑った。
「だんなさまの、お好きなように。」
やはり泣いているより笑ってるほうがいい。今年も一年仲良く過ごそうな。