厄災の神と白玉の巫子 二
ずっと、大勢の人間の泣き声が聞こえる、と男は思っていました。
親を失い、子を失い、嘆き哀しむひとびとの声です。飢えと渇きに怯え、病を恐れて震えている。沢山の辛そうな声の集まりが、耳の奥でわんわんと響くのです。
(どうにかしてやれるんなら、してやるんだけどよ。)
聞こえるばかりで、どうにもできないのです。
日の差さない地底の奥底を、闇に溶け込む姿でうろうろと彷徨うのが、その異形の男の宿命でした。土地に縛られて存在を残す男です。谷底から日の差す世界へは出られません。耳を塞ぎたくとも、塞ぐ手立てもありません。
恨みがましい声。怨嗟の声。嘆きの声。そんな聞きなれた音の羅列の中に。
じゃらりと。割って入った清冽な音がありました。
(なんだ? )
琵琶の音と、ひとの声。高く、低く、音量はかすかながらも冴え冴えと。
地面に伏せていた顔をがばっと上げ、もっとよく聞こえないかと、男は闇に塗りつぶされた影の上体を起こしました。知らず、両手が空へと伸びました。
遠く、消えそうな思い出の中にしかなかった太陽が、白い雲をひいて落ちてきました。
受け止めたものをみて、男は息がとまるほど驚きました。
落ちて来たのは、頬骨の出た、やせて鎖骨の浮いている子供でした。真っ白な死装束をまとって、背中には赤い琵琶を背負っていました。生まれたときから伸ばしているような、長い長い夕陽色の髪の毛が、子供の体を覆っていました。
(生贄が来たか。そんなに状況が悪いとは。)
「あなたが、神ですか。」
落ちて来た子供を、壊れ物のように大事に地面に降ろした時でした。呼ばれるとは思わなかった男は、ぎくりと背中を震わせました。彼らがいる谷底は、光の入らない真っ暗な世界です。人間にはおろか、獣でも闇が濃すぎて、何も見えるはずがないのです。けれどもその子供の眼はちゃんと、男の顔をとらえていました。
「なんで視えるんだよ。」
闇と同化した声帯を震わせて、男は数百年ぶりに喉を使って喋りました。子供は困惑したような素振りで、黙り込んでしまいました。
「別に視えてるわけじゃねぇんだよ。こいつ浪ってんだけどよ、母親にめっぽう五感を鍛えられててな。目を使わなくとも気配で、周りの様子が手に取るようにわかるのさ。」
男はあっけにとられました。最初の子供の声とは全く違うしわがれ声が、子供の背後から滔々と聞こえたからです。どうも、子供の背負った琵琶から霊力を感じます。
「付喪神かよ。」
「ま、似たようなモンさ。あんたの足元にも及ばねぇけどなー。おっかねぇ神様。」
男は、長々とため息をつきました。
「別に神さまやってるつもりはねぇんだけどよ。気がついたら、いろんな厄介事を背負わされて、こんなところに長滞在するはめになっちまった。ったく、難儀な話だぜ。」
「神様、ではないのですか。でも……、」
張りのある声で、闇の中から応じた相手。落ちて来た浪を支えて、傷つかない様にしてくれた相手からは、とてつもなく大きな気配がしました。人間の言葉をしゃべっているけれど、ただの人の気配ではないとわかります。
今の巫謠にはどちらでも、どうでもよいことでした。谷に住まうものへの贄。その為にここへと来たのです。
「神様だったら、どうする? 」
面白がるように問うた、巨大な気配の存在に、巫謠は己の役割を再確認しました。
膝を折り、両手を地面につき、深々と腰を折ります。
「俺が、贄です。どうか、この命と引き換えに、疫病をおさめる慈悲をくださいますよう。」
お願いします、と重ねて言ったきり、子供は頭を上げずにじっと答えを待っているようでした。