厄災の神と白玉の巫子 五
詳しくは語れねぇが、と前置きをして、男は話し始めました。
人間の、しかも権力を持つ者が持っていてはいけない危険な『あるもの』を、男は集めていたと言います。集まった『あるもの』は気づけば膨大な数に及び、男はそのものの力を求める権力者や悪党に狙われ、追われ、捨て場所を探すために流浪の旅を強いられていました。
諸国を巡り方々を訪ねて、辿り着いたのがこの鬼歿之地の、光の差さない万年谷でした。
「深い深い谷の底だったら、誰も探しに来ることはないと思ったのさ。」
『あるもの』を隠そうと、谷底へ降りた男は、けれども気づいたのです。自分程度の武芸者でも降りられてしまったのだから、他の連中にだって可能だろうと。逡巡するうちに、この地の奇妙さにも気がつきました。夜目のきく男でも、自分の目の前にかざした手さえ見えない闇。降り立った瞬間から、時間の感覚がありません。生きていれば感じるはずの空腹も、尿意も、消えてしまったのです。まるで自分ごと、時の止まった場所へと封じ込まれてしまったかのようでした。
「さすがに気味が悪くなって、いったんは外へ出ようとした。」
「出られたのかい? 」
琵琶が興味深く尋ねました。
「いや。途中まで登ったところで、何かに足を引かれるように戻されちまった。それからずっと、ここにいる。」
底にあった闇は、男を離しはしませんでした。ひとの体は、闇と同化していました。
風が運ぶ、谷の外から聞こえる物音で、月日が流れているのは解りました。誤って落ちて来た者や落とされた者、贄として投げ込まれてくる者などを拾い上げて地上に返すうちに、いつしか自分が神と呼ばれるようになったことを知りました。
男は皮肉気に笑いました。
「神なんかじゃねぇって言ってもよ。ひとに比べりゃ長生きはしているわ、こんな場所で生き延びてるわで、ただびとじゃ無くなっちまったのは事実なんだよな。」
子供は男の気配のする方をじっと見上げながら、静かに尋ねました。
「もし、この谷から出られたら。出たいですか? 」
不意を突かれたように、気配が揺らめきました。
「……出られるんなら、な。だが、今は出なくてもいいような気もしてる。」
「神様が守ってる『あるもの』の為かい? 」
琵琶が言いました。察するに、目の前の闇の気配と同化した神はこの谷を出られません。そして、落ちて来た人間がいたとしても、この神の助力なしにはきっとこの地の底を出られないのです。『あるもの』を狙う悪党がやって来ても、神の意志に反して持ち出せないなら、この世の平穏は守られます。
「ああ。こいつが悪党の手に渡って、世の中が滅茶苦茶になるのを思えばな。俺がここにいるのなんて、たいした苦じゃねぇような気もする。」
懐を叩いて、男は言いました。
子供は、ゆっくりと辺りを見回しました。濃淡もないほど何処までもが闇です。
こんな寂しい場所で、神様はずっと。
巫謠は胸が痛くてたまらなくなりました。母を亡くしてからひとりで生きて来た巫謠でしたが、そばには口うるさい琵琶がいました。心を傾ける音楽がありました。四季折々に移り行く美しい景色になぐさめられもしました。困った時には手を差し伸べてくれる人々もいました。
色も音も香りも味も、自分の生きていた世界は実に豊かであったのだと知りました。
それもみんな、この神様が、人知れず守ってくれていたから。
「ああ、でも。」
大きな気配が懐かしむように言いました。
「……もういっぺん、月を見ながら旨い酒を飲みてぇな。」