だんなさまの音 肆
「俺は、自分の食べたいものも食べさせてもらえないのか? 」
薄々、いつかは言われる言葉だとは浪は思っていた。
実際に言われてみると槍のように心臓を刺して、床に突き刺さって、まばたきもできなくなった。
げふ、こふ、と小さなげっぷの音が聞こえた。
食後のことだった。食後の片づけをかって出てくれた殤に皿洗いを任せて、風呂に入ってしまおうと背を向けた時に。浪の耳はだんなさまのどんな音でも聞き逃しはしない。
だんなさまはこのところ接待での飲みが続いているようで、いつも帰宅は遅めだった。それでも、接待の席ではもてなす側はそうそう食べてもいられないと空腹で帰ってくるので、浪は夕食の支度をして待つ。飲んできたというのによく食事が進むなと思っていたが、いつも通りに完食するので、健啖家とはそんなものなのかと受け止めていたけれど。
風呂上がりの浪は、濡れ髪を拭きながら、キッチンの棚においている愛読書の該当ページを開く。胃腸が疲れていたり、炎症を起こしていたり、胸やけしたりしているとげっぷが出やすいのだという。アルコールには強いだんなさまでも、連日の飲みでは内臓がお疲れなのだろう。察することができずに、いつも通りの食事を出してしまったのを、浪は唇を噛んで悔やむ。
飲みのあとは、胃腸にいい食事。うどんとか、にゅうめん。脂肪分の少ないもの。お薦めの食品を頭に叩き込んでページを閉じる。
その晩、一緒にベッドに入ってさあ寝よう、というタイミングで、殤が言った。
「明日の晩はからあげが食いたいな。今日、居酒屋で山盛りのからあげが出たんだが、話をしてるうちに食いそこなっちまって。今めちゃくちゃ、鶏のからあげの気分。」
それを聞いた浪は考え込む。油ものは控えたほうがいいはずだ。でも、殤は食べたいという。でも、平日の遅い時間帯の食事で、さらにまた飲みの後なのだったら、だんなさまの胃腸に良くないんじゃないか。休日の昼ごはんまで、待てないだろうか。ぐるぐると、考え込む。
隣に寝ているだんなさまの心音が、いとおしい。いつまでも健やかでいてほしいと浪は願う。
「ただいま。」
「おかえり。」
翌晩も飲みで遅くなった殤に、浪が出した夕食は、鶏のからあげではなかった。
だし汁で煮てゆず皮を散らした豆腐入りのにゅうめんと、手羽元と大根の煮物。
ひとのこしらえた食事に、文句を言ったりするだんなさまではない。けれど、昨夜の今日だ。きっと、期待もしていたに違いない。
「俺は、自分の食べたいものも食べさせてもらえないのか? 」
怒りや悪意のある言い方ではなかった。冗談めかすような、ちょっと苦笑したような。
それでも優しいだんなさまは、テーブルについて黙って食事をとり始めた。
凍りついたまま、箸も持てずに、浪はその姿を凝視する。
だんなさまに、元気でいてもらいたい。不調なところがあるなら、調子を取り戻して欲しい。
わかってはいるのだ。殤の希望を無視したそれら全ては、結局は自己満足に過ぎないのだと。それでも。
だんなさま。あなたのことが、心配なんです。あなたのことが、大切なんです。
先に食事を終えた殤が、自分の分の食器を洗ってダイニングを出て行った。浪はのろのろと立ち上がり、キッチンの棚に隠すように置いていた本を、ごみ箱の中に投げ捨てた。
それから財布と家の鍵を用意し、買い物用に使っているエコバックを持ってマンションを出た。冷蔵庫にも冷凍庫にも鶏肉はない。少し家からは離れているけれど、二十四時間営業しているスーパーがある。夜のうちに下味をつけて、朝早起きして揚げれば、朝食には間に合う。
真っ暗な道をとぼとぼと歩きながら、浪は、衣に使う小麦粉と片栗粉の配合を考えていた。