だんなさまの音 伍
見知らぬ白い天井。キーンと、飛行機が飛び続けるように続く耳鳴り。消毒液の匂い。突然変わった景色に、浪は面食らう。さっきまでエコバックを下げて歩いていたのに、なにがあった。
スーパーで買い物を済ませ、店を出たはずだった。路地からマンションの前へと続く通りに戻り、それから。そこで記憶が不自然に途切れている。
不意に手を引かれた。視界に入って来たのは、泣きそうな顔のだんなさま。そして、せわしなく動き回る見知らぬ女性がひとり。けれどこちらは白衣でひとめみて看護師だとわかる出で立ちだったので、もしやと疑う。
なんだか、車に轢かれたような気もするような、しないような。きんきんごうごうとうるさい耳鳴りと、判然としない記憶。なにか、話しかけてくる殤。ああ、そういえば。
だんなさまの声が聞こえない。声だけじゃなく、周りの音すべてが。絶え間ない耳鳴りに阻まれて、看護師さんにも、何を聞かれているのかわからない。
これはきっと、罰なのかもしれないと浪は思った。だんなさまの気持ちを、ないがしろにしてしまった罰。そう思うと、またどっと疲労のように眠気が押し寄せて来て、目を閉じる。だんなさまの握る手の力が強くなって、痛い。
からあげ、作れなかったな、とそれだけが残念だった。鶏もも肉450g、どこへ飛んでいった。
罫線のない真っ白なA4ノートと、黒い水性ボールペン。再び目覚め、あらゆる検査室を順繰りはしごさせられた浪の現状がわかった時に、枕元に殤が用意した。
財布に入っていた運転免許証をみつけた警察から連絡を受け、真っ青になってかけつけた病院で、殤は警官と救急救命医の説明を受けた。飲酒運転の車が、歩道に突っ込んだのだという。車は浪をはねた後で、通りにあった店のシャッターにめりこんで止まった。だが幸いにも、頭皮の裂傷、手足や肩の打撲痕以外に目立った外傷はなく、命に別状はないだろうと。
現場に落ちていたという浪のエコバックからは、財布と鍵、生姜と片栗粉と鶏もも肉が出てきた。きっと朝食用に作ろうとしたのだと、考え及ぶと後悔ばかりが浮かんだ。
『痛いか? 』
『すこし。』
頭部への衝撃で、浪は外部の音より、身体内部の音を拾いやすくなっていると診断された。それにかき消されて、外の音がよく聞こえない。看護師とも殤とも、筆談でやりとりをするようになった。
打撲だけだったといっても痛みはあるだろうし、四六時中大きな耳鳴りに悩まされる苦痛は想像するだけで辛い。それでも浪は、愚痴めいた言葉のひとつも、指先からノートに写し出さない。
『なにかして欲しいことはあるか? 』
『しんぱいしないで、しごとにいけ。』