厄災の神と白玉の巫子 九
その時、地の底から這うような地鳴りが起こりました。咄嗟に落ちた琵琶を拾い上げて背負った男は、今は見えるようになった周囲の岩肌に亀裂が走り、崩れ出したのを呆然と眺めました。
「谷が崩れるぞ! 太歳神、とっととずらかろうぜ! 」
耳元で大声で喚かれ、はっとします。
「この地底には『あれ』が埋めてあるんだ! 」
「手放したかったんだろ。埋まっちまえば好都合じゃねぇか。さ、急げ! 」
剥がれて落ちてくる岩板を避け、崖の突起を足場に垂直に駆け上がり、舞い上がる砂埃に押されながら岩の隙間をすり抜けて。安全と思われる場所に辿り着いて振り向けば。
万年谷と呼ばれた鬼歿之地随一の深い谷は、跡形もなく消えてしまっていたのでした。
数百年ぶりに鬼歿之地を出た殤は、心ここにあらずといった有様で、背負った琵琶の言うなりに歩みを進めていました。
未だに身の上に起こったことが信じられません。二度と歩けないかもしれないと思っていた地上を歩き、すっかり様変わりした辺りの様子に驚き。そして。再会するなり消えてしまった、太陽の髪を持った子供の選択を、嘆きました。
廃墟となった村を通り抜け、小高い丘についたのは夜更けのことでした。
「ここは、浪が生まれた村さ。気候が変わってみんな生きるために移転しちまったけどな。」
「そう、か。」
丘には、一組の机と椅子が用意されていました。机の上には、酒徳利と、盃がひとつ置かれています。どちらも真新しいもののようでした。
「ま、座って一杯やんなよ、旦那。」
促されるまま徳利から盃に酒を注ぎ、口に含みました。咥内から脳天に痺れが走り、遠い記憶が呼び覚まされます。ふくよかな味わいの、上質なものだとわかりました。
「……旨い。」
「あいつが聞いたら喜ぶよ。顔をあげてみな、神様。」
また、促されて首を巡らせば、空には大きな満月が光っていました。白く冴えた月光が、あの子供の、あの青年のまとっていた衣装のように輝いて映りました。
月を眺めながら、酒が飲みたいと。そんな戯言を、あの子は覚えていたのだろうか。その願いを叶える為に、懸命に生き延びて、闇を祓う手段を探し求めて、そして。
「なん、で……。盃がひとつきりしか、ねぇんだよ。」
絞り出すように、殤は言いました。この丘に酒宴の用意をした時から、きっと巫謠は覚悟していたはずです。太歳神を闇から解放するには、その闇と同じ質量の音が必要だと。自らの血肉を、命力を音に変えて、縛られた世界から解き放ったのです。
「お前あいつの楽器だろうが。なんで止めなかった。」
「アイツの楽器だから、だよ。主が一番やりてぇって思ったことなら、一介の楽器が止められるモンかよ。」
凄かったんだぜ、と聆牙は言いました。
「神様の声を聞いて救国を成し遂げた乙女っつう、異国の話があるけどよ。浪もまたとり憑かれたように、神様を助ける方法を探してたんだ。」
それはもう、わき目もふらずに、一途にひたすらに。その為なら他人にどんな仕打ちを受けようと、一向に意に介さないようだったと琵琶は続けました。
器物はひとの感情を伝聞でしか知りません。が、あれは正義感や使命感とも少し異なるようなものだと感じていました。
「強いて言うんなら、思慕ってやつなのかもな。アイツは神様の生きざまに、心底惚れ込んだのよ。」
浪、最後に言ってたぜ、と、聆牙はあえて明るく語りました。
「『綺麗な目。思ってたとおり。』ってな。」