ヒロイン登場
捻じ曲げてしまったところは全て正す。バイオリンにそう語った通り、浪は親と理事長に頼み込み、殤を管弦楽部の顧問から剣道部の顧問へと戻した。突然の決定に殤は戸惑ったが、振り回された怒りよりも、元に戻った安堵感のほうが強かった。クラス担任は相変わらず浪ふようのクラスを受け持っていたものの、浪自身がまるでひとが変わったように大人しくなり、一切絡んで来なくなったので、ふたりの接点はそれこそ出欠の点呼か進路調査か、ぐらいの少なさになった。
常に浪の周りを取り囲んでいた取り巻き達は、浪の変化にひとりまたひとりと離れて行き、今ではよほど浪の財力に執着があるもの数人がしつこく話しかけているだけだ。管弦楽部も辞め、放課後になるとひとりでバイオリンケースを持ってどこかへ消えて行く。これで成績が落ちていたりすれば、人格が変わる病を疑ってカウンセリングを勧めたりもできようが、相変わらずトップクラスをキープしているのでそれもできない。
(バイオリンを持ってくるところをみると、どっかで練習はしてるんだろうが。)
「毎日熱心だな。一体どこで……、」
聞こうとしても、無言でぺこりと会釈をして、足早に消えてしまう。あんなにお喋りで、腕にしなだれかかり、聞かれなくともぺらぺらと喋り倒していたのが嘘のようだ。
(どうしたんだろうな。思春期の女の子ってぇのはあんなに急に変わるもんかね。)
以前と今と。どちらがいいかといえば、勿論後者である。少なくとも今のふようは、殤に付きまとったりしていないし、殤に好意を寄せる女生徒に嫌がらせを仕掛けて追い払ったりもしない。無口で非社交的になり、名家の令嬢らしさは消えたが、その瞳は余計な感情に惑わされずまっすぐに澄んでいる。育ちの良さからくる気品と、もともと備わっていた清楚な美貌は、身なりが地味になったぶんいっそう引き立つのだった。
(……、っと、いけねえ。気がつくと、浪のことばかり考えちまう。)
生徒たちには平等、公平に。そのモットーを貫いて、ふように脅されても屈しなかった殤は、脅しがなくなったにも関わらずふようのことを考えている自分に愕然となる。
「殤センセイ。なにを考えこんでるんですか? 」
「ん? 」
その時話しかけてきたのは、隣のクラスの転校生、凜せつあだった。浪が殤から離れていったのをまるで見計らったかのように、最近とみに話しかけてくる女生徒である。いたずらっぽい笑みが特徴の彼女は転校してきたばかりだというのに、社交的で、学校中の教師のハートをつかみ、いまや生徒会にも出入りしている。
ポニーテールの白い髪を揺らし、元気で明るく、いつもにこにことしている彼女だったが、どこかうすら寒いものを殤は背に感じることがあった。この年頃の少女にしては、どこか、出来過ぎているのだ。
「ウチのクラスの奴のことさ。隣のクラスのお前さんにゃ、特に関係ない。」
「ふうん。でもわたし、センセイのことならなんでも知りたいな。」
凜は首を傾げてにっこりと微笑む。自分の好感度の高さを、知っているような笑顔だった。
「悪いが、教師にも守秘義務ってのがあるんだ。」
閉口しながら言えば、それ以上は聞き出せないと思ったのか、凜は話題を変えた。
「そういえばね、センセイ。わたし、今度の音楽コンクールに出るんです。大得意のバイオリンで。」
「ほーお。」
「もし一位をとったら、センセイにお願いを聞いて欲しいんですけど、いいですか? 」
凜がどんな演奏をするかはわからないが、一位を取るのは順当にいけば、理事長お気に入りの浪に決まっている。ここでは誰も、あの娘には逆らえない。と、そこまで思って、殤は眉をひそめた。最近の浪は、今までとはまったく違う。そもそもコンクールがあったとして、そんな目立つ場にあの子が出場するのかどうか。
「いいですよねー、やったぁ! 」
「え、は、おい、勝手に決めるな!? 」
頷いてもいないのに、凜は手を叩いて飛び上がった。はたから見れば、殤が承諾したように見えたのだろう。
「良かったね、せつあちゃん。」
「さすが凜さんだわ。」
「うふふ、ありがとう、皆さん。」
隣のクラスの女生徒だというのに、教室に残っていた生徒たちに応援されている。つくづく顔が広いのに舌を巻いた。
「じゃあセンセイ、よろしくね。」
ポニーテールを靡かせて去って行く後ろ姿を見送りながら、そういえば、と殤は思い出す。得意はバイオリンだと言っていた。近頃非常階段のあたりから聞こえるバイオリンは、もしかしたらせつあの演奏だったのかもしれない。
(まあ、あの音の主だったら、応援のし甲斐があるが。)
浪が出るなら、たとえあの澄んだ美しい音の主だとて勝ち目はないだろう。