だんなさまの音 壱
浪巫謠は耳が良い。
どのくらい良いかといえば、隣で寝ている旦那様の心音が、直に耳を当てずとも聞こえるくらいだ。
そっと、そうっと。昨日も遅くまで残業だった旦那様の寝息を乱さぬよう、忍び足で浪はふたりの愛の巣であるダブルベッドを抜け出す。髭の生えた旦那様の顔は寝ていると存外幼くも見えて、いつまでも眺めていられるほどに可愛くて、でもじっと見ていると起こしてしまいそうだから、チラ見だけに留めて先に起きる。
防音マンションで一緒に暮らしている旦那様は普通の会社員で、浪は耳の良さや音感の確かさを生かし、自宅で作曲の仕事をしている。共働きではあるが、自宅で過ごす時間が長い分、普段の平日の家事は浪が、休日の家事は旦那様の殤がメインで分担している。
平日の朝ごはんは浪の担当。忙しい朝にはすぐに出来上がるものがいい。毎日食べても飽きない白米と味噌汁。常備菜のキャベツ漬け。それから牛肉とごぼうのしぐれ煮。
そういえば、と浪は思い出す。
寝る前にPCの画面を視ていた旦那様から、ごそごそと何かをこするような音がしていた。浪は衣類の整理をしていて直接は見ていないけれど、あれはなんだか、目を擦っていたような。
だんなさま、目が疲れていたのかな。
キッチンの棚の陰、隠すように置かれている一冊の本を取り出す。食品成分表と、症状別の足りない栄養素が補える食べ物一覧が網羅されているその本は、浪にとっては信仰の書みたいなものだ。なんどこの本に助けられてきたかわからない。
ええと、なになに。疲れ目、眼精疲労には。
書かれていた食品と、自宅の冷蔵庫と冷凍庫の中身を照らし合わせて、定番の朝ごはんに添える一品を決める。
ビタミンA。にんじんある。細く切って、軽く塩もみして、キャベツ漬けに混ぜ込もう。
アントシアニン。冷凍いちごがある。いちごと、バナナと氷入れて攪拌して、スムージー作ろう。食後のデザートがわりに。
決まったら善は急げ。ぱたんと本を閉じて、元の棚に戻して、朝食の用意を進めていく。並べ終わる頃には目覚まし時計がなって、眠そうな顔の旦那様が起きてくる。
ふたりで向かい合ってとる朝ごはん。和風な朝食にそぐわないスムージーに、旦那様は怪訝そうな顔をしているけれど。それをわざわざ口にして、ひとのこしらえた食事にケチをつけるようなひとではないのだ。よくわからないような顔で飲み込んで、朝ごはん終了。急いで身支度を整えてご出勤。
旦那様を見送った後、スムージーの攪拌を頑張ったフードプロセッサーのふたを撫でながら、浪は祈る。旦那様の疲れ目が少しでも、良くなりますように、と。