母の日
五月十日は母の日。東離の公式Facebookには、浪さんのお母さん咒旬瘖をマリア様に、浪さんをイエスに見立てた聖母子のコラ画が上がっていた。
一見、微笑ましいコラ画なのだけど、お母さん持ってるのはそれ哺乳瓶? てとこで、もしかしたら浪さんは咒旬瘖の子じゃなくてどっかから拾ってきた子だという暗喩か、と邪推もしてしまった。一応映画内ではわたしが生んだのは~、みたいな言い方をしていたから、実子なんだろうなとは思うけれども。
説明文の、欺瞞に満ちた江湖では、常に離別や死別の苦痛に直面することが多く、母親と一緒にいることが難しい。でもそんな厳しい環境になるほど、母の愛の偉大さがわかるよね(てきとう訳です)、みたいなところはちょっと泣けた。
そうなんだよね。江湖の子供達の多くが、生まれてすぐにお母さんを亡くしたり、幼いうちにやむを得ない事情で捨てられたり別れたり。お母さんは生きているけど親の心子知らず、子の心親知らずで対立していたりさ。素素様んちの息子さんも浪さんと同じように、目の前でお母さん亡くすし。無生さんは捨てられてるし。これはきっと殤さんと凜さんも親と早くに別れてるパターンだろうな。
もはや霹靂内ではそれが常識、当たり前の文化になってて、蝴蝶君一家みるたびに、どうか娘さんが成人するまではお二人とも健やかでいてあげて、と思ってしまうくらい。
子供が抜きん出た超人的英雄力を身につけるには、どうしてもあったかい親の庇護の下でぬくぬくとしてたんじゃ駄目だというのは、まぁ、古今東西、物語のお約束でもあるわけで。
霹靂文化に触れてると、親には生きてるうちにできるだけ感謝しなくちゃ、と思う。亡くしてからお墓の盛り土の前で言ったって遅いんだもの。
親の愛に恵まれなかったからか、その分兄弟もしくは義兄弟、身内に対する感情は深い。まあだから歪む時も、愛が深い分憎しみも取り返しのつかないところまで歪んじゃうわけだけれど。そういうドラマがこれでもかとどろどろと繰り広げられるのが一種、霹靂の様式美になってるのに、それに比べると東離ってやっぱりさっぱりとしているというか、希薄というか。
蠍っちゃんにしたって、殤さんを追う理由って個人的な恨みじゃないんだよね。上司の期待にこたえたいってのが一番だし。狂狷さんなんか、西幽で啖劍太歳に酷い目に合わされたのに、東離に来た理由は恨みじゃなくて、横流し品さばく方が主目的だと判明する。婁さんに至っては、殤不患別にどうでもいいけど姫がお気にだっていうから、自分以外に姫の気をひく奴は許せん、みたいな。
生死の凜殺ぐらいじゃないのかな、私怨があるのは。三期で婁七組と刑亥姐さんがどんだけ恨み心頭で鬱積を晴らしてくるかにもよるけれど。
浪さんが殤さんに置いて行かれたことに恨み節をまくし立てなかったのは、そういう、全体的に敵討ちだの個人の私怨だのを入れずさっぱり風味に仕立てました、の延長なのかもしれない。物語って、悪い、憎いひとを最後に一掃して終わり、ではないんだよ、と。
日本人はなんにつけ恨みを忌避して調和志向だから。やり返されても負けないぐらい強いハートがあるから怖くないぜという殤さんと、恨みを買いまくるのがむしろ愉悦、生き甲斐みたいな凜さんが、あの世界で他人とは違う英雄視をされるのは理解できる。凡人じゃそういう生き方できないもの。それこそ、道場作って弟子育てて平穏に暮らすような、人に優しい生き方のほうが簡単だし、大多数のひとが、そっちのほうがいいと思うんじゃないかな。端で観る分には無頼でかっこいいけれど、共感はしない。
……共感しないものには、見上げて憧れるけど、そんなにはまらないのが凡人というもの。あのふたりは正直、完成されているのであんまり応援のし甲斐がない。まあ凜さんのしていることを賛美して応援するのは、人格を疑われそうなものだけどな。
まあでも、蓄積された恨みやいろんなわだかまりっていうのは、比較的他人が共感、共有しやすい感情でもあるから。そういうドラマが散りばめられているほど、重たい味になってそれはそれで美味しいと思う。作り手の意図としては東離を入り口、前菜に、その重たさを食べるためのご本家様らしいので、三期でどれだけメインディッシュに寄った味付けになるのかが楽しみでもある。主人公の成長譚、という日本人好みの物語の柱が存在しない以上、二期のようにデバフをかけるかご本家のように強い相手を次々とインフレ的にぶつけるか。魔界には妖荼黎様みたいなのがたくさんいるらしいから、使徒みたいに一話につき一体襲来してくると、神誨魔械もばんばん消費されて殤さんも有難いだろう。
◇◇◇
「かいにん、とはなんだ。」
告げた医師に対する、その女人の第一声がそれであった。
父親から家業の経営を譲られたばかりであった、壮年のその医師は、ある貴族の屋敷の離れに極秘で招かれた。
一切の口外はまかりならぬと念を押され、多額の謝礼を積まれてからの、異例の診療。どこぞの深窓の姫君でも受け持つのかと思いきや、待っていたのは琵琶を抱えた白髪の若い娘である。盲目らしく眼帯をつけているが、それでも凛と伸ばした背に、張りのある声は、貴族の姫というよりどこかの軍閥の若武者を思わせた。それでも楽器を持つところをみると、娘の身分は楽師以外に思いつかず、医師は首をひねった。
が、余計な詮索は命取りである。口数の少ない娘から症状を聞き出し、脈や経絡の様子を診察し、心音に耳を澄ませ。半日かけて出した結論がそれである。
「お腹にお子がおられます。」
たいていの女人なら、告げられればまず顔を赤らめるか、照れくさそうになるか、早さは異なれどその表情にはじわじわと喜びの色が浮かんでくる。一部、真っ青になって倒れ込んでしまう者もいるが。
その女人の反応は、どちらとも異なっていた。
思い当たる節があったのだろうか。唇に手を当てて俯き、何かを考えこんでいる。やがて顔をあげた女人は、感情を乗せない声でこう言った。
「……楽の道を極めるに、子とは妨げにならぬものだろうか。」
道の妨げになるなら不要、と続けて言う。
ああ、いるんだよなぁこういうひと。
医師は驚かなかった。世の中には様々な人間がいる。町医師である男の元へは、貴族から平民まで、実に様々な階層の患者がやって来た。中には求道者と思しき、極めるもののためには一切を犠牲にするのをためらわないような、そんな人種もいる。
堕胎の希望は、それぞれの事情も察せられるし、命が尊いものであると、道徳的なことを言って翻意させるつもりもない。ただ。
「妨げになるかどうかは、貴女の御心がけひとつ。」
「私の。」
「子はいつまでも、荷ではない。長じては歩き、親の手をひいて先を行くようになり、やがて手を離して去っていく。十数年かそこらでありましょう。」
実際に思っているより短期間だと教えてやると、娘は首を傾げた。
「……我が両手は、琵琶で塞がる。」
「尾羽を見れば鴨の子とて親を間違えますまい。まして人ならば。」
しばらく黙って考え込んでいるのを、しかたないかぁと思う。打ち込むものに本気であればこそ、修行僧のように、一切の煩悩を削ぎ落さねば到達できぬのだろうとも。
「妨げにならない、とは断じません。ひと一人育てるのは大変な荒行と存ずる。しかしそれゆえに、また。」
言葉をきり、手の平を上にして、娘の手にある赤い琵琶を指し示した。
「新しい音が加わり、面白き道に、なるやもしれません。」
ほう、と娘はため息をついた。興味をひいたのか、表情のなかった口角があがる。
「我が楽道に、新しい音、か。」
「聞いてみたいと思いませんか? 」
女人は答えなかった。答えずに、琵琶の弦をざらん、と鳴らした。
診療後、貴族の屋敷に医師が呼ばれることは一度もなかったし、その娘の消息も杳として知れなかった。町の外れで、赤い琵琶をひく赤い装束の娘をたまたま見て、十数年ぶりに思い出しただけの話だ。
あの白髪の女人は、新たな音を聞けたのだろうか。その道は、満足のゆくまで極められたのか。
風に乗って耳を通り過ぎた琵琶の音が、なぜだか答えを教えてくれたような気がした。